がんの発生や進展を左右する微小環境の解明へ
大島 正伸 氏 (金沢大学がん進展制御研究所腫瘍遺伝学研究分野教授 所長)

細胞内のがん遺伝子やがん抑制遺伝子の異常が蓄積することから引き起こされる「がん」。 近年、その発生には、遺伝子変異だけでなく、がん細胞を取り巻く「微小環境」が深く関与することが明らかになってきました。 遺伝子の変異を蓄積しつつあるがん細胞を育てる「ゆりかご」となる微小環境の正体とは? 生体の防御システムを巧みに利用しつつ「ゆりかご」で成長するがん細胞を阻む手立ては? モデル動物の開発を通し、個体全体からそのメカニズム解明に挑む大島正伸氏にお話を伺いました。

炎症とがんの関係を探る モデルマウスの開発
「胃がん発生の原因遺伝子はいまだ不明な点もありますが、胃がん組織では広くWntシグナルの活性化が認められており、その主要な発がん経路に位置すると考えられています。私たちは胃粘膜特異的にWntシグナルを活性化するモデルマウスを開発しました。このマウスは、胃粘膜に非常に小さな前がん病変が形成されますが、腫瘍の形成には至りません。一方、炎症物質であるプロスタグランジンE2の合成酵素を活性化したトランスジェニックマウスは、見事に胃炎を発症します。驚いたことに、これらのマウスをかけ合わせ、両方の変異を持つマウスでは、典型的な胃がんが発生するのです。ところがこのマウスを無菌で育てると胃炎は発症せず、胃がんの発生も顕著に抑制されます。つまり胃がんの発生には、遺伝子変異だけでなく炎症反応が関わることを明らかにしました」。大島氏は胃がんの発生過程をモデル化したGanマウスについて語ります。

ノックアウトマウス作製に明け暮れた日々
1988年に獣医学部を卒業、その後分子生物学に取り組みたい一心で、東京大学医科学研究所で研究生活を開始した大島氏。半年後には製薬企業に移動し、厳しい遺伝子クローニングの競争の世界に飛び込みます。「その頃、分子生物学研究のバイブル的な存在だったモレクロ(MolecularCloning)を何度も読み込んで実験していましたが、うまくいかないことも多く、様々な工夫を仲間と考えつつ手探りで研究を進めていました」と話します。そんな時、獣医というバックグラウンドに目をつけ、勃興期にあったノックアウトマウスの開発に取り組まないかという誘いが舞い込みます。「私を誘った武藤誠先生は、アメリカで長い研究生活を送ってきており、非常に質の良いES細胞を持ち帰っていました。それを使うと生殖細胞系列に変異が入ったキメラがほぼ100%生まれることもありました。一般的なES細胞では数%か多くても20~30%の産仔が生殖系列に入れば良い方です」。そんなエキサイティングな環境で、様々なノックアウトマウス作製を試みます。そして1992年、大島氏に大きな転機が訪れます。新たにクローニングされた大腸がんの発生に関わるAPC遺伝子のノックアウトマウスを作製し、腸の腫瘍の原因がAPC遺伝子のtwo-hit mutationだということを示したのです。「このマウスが私の研究人生の原点」と、大島氏は振り返ります。

Ganマウスの胃がんの組織切片を蛍光染色した画像。赤はがん組織(E-cadherinを染色)、緑はマクロファージ(F4/80を染色)。増殖したがん組織の間質に多くのマクロファージの浸潤が見られる。

がん細胞を育む、炎症という微小環境
「APCノックアウトマウスの作製直後、アメリカの論文で家族性大腸がんの患者に抗炎症薬を投与し続けると腫瘍が減っていくという結果に目が留まりました。そこで炎症を抑制するマウスを作り、APCのそれと掛け合わせたんです。すると劇的に大腸がんの発生が抑えられました。この遺伝子は、プロスタグランジンE2合成の律速酵素であるCOX-2をコードしており、がんの周りで発現は上がるものの、がん遺伝子ではありません」。大島氏は現在の研究につながるCOX-2との出会いを語ります。そこで次に胃粘膜特異的にCOX-2経路が活性化するマウスを作り、胃がんの発生について研究を開始することにしました。ところがこのマウスの胃には炎症は観察されるものの、腫瘍は発生しません。がんとの関わりを明らかにするために、いくつものがん遺伝子変異マウスなどとかけ合わせたところ、Wnt1の機能亢進マウスとの組み合わせで冒頭のGanマウスが誕生します。「このマウスの研究を通して、がんの周囲の炎症はがん細胞を攻撃するための免疫反応ではなく、がん細胞を維持し、育てるための『ゆりかご』の役割を担うではないかと考えるようになりました。特に微小環境における骨髄由来のマクロファージの働きに注目して研究を進めています」と、大島氏。従来とは異なる仮説から炎症とがんの関係を突き止めようとしています。

今後の研究と若い研究者へのメッセージ
「すでに四半世紀近くがんの研究を続けてきましたが、この疾患は奥深く、なかなかその全貌を明らかにしないと思っています。将来的には、転移・再発をともなうステージIVの進展がんを発生するマウスモデルを作って悪性化機構を研究したり、組織に潜むがん幹細胞と微小環境の関係を明らかにしていきたい」。大島氏はこれからも精力的にがん研究を進めていくようです。「がんは遺伝子変異が原因で生じるため、寿命が延びるほど増えていくのは仕方がないことです。ですが5年か10年かという再発のスパンは、微小環境をうまく制御することで延ばすことができるかもしれません。このアプローチから新たな予防や治療法へつなげたい」と続けます。最後に若い研究者への一言です。「流行に左右されず、バックボーンになる技術をいくつか持つことをお勧めします。私は若い頃に、病理学を徹底的に叩き込まれたことが、後々大変役に立ちました」。多くの研究者が挑むがん研究において、独自のアプローチや概念で新たな「がん」の姿を描き出そうとする大島氏。そのベースを、複数のバックグラウンドから多面的に対象を捉える力が支えているのかもしれません。

 

 

大島正伸(おおしま まさのぶ)氏
1988年北海道大学大学院獣医学研究科(修士課程)卒業後、中外製薬探索研究所研究員、万有製薬つくば研究所研究員、 Merck Research Laboratories研究員を経て、2000年京都大学大学院医学研究科助教授、 2005年金沢大学がん研究所教授、現在に至る(2010年 研究所名称変更)。