岡野栄之 氏(慶應義塾大学医学部生理学教室教授)

2013年6月、厚生労働省の審査委員会は、理化学研究所から申請された人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った 世界初の臨床研究の実施を承認しました。対象は加齢黄斑変性症。 患者さんの体細胞をiPS細胞に変え、ここから網膜の細胞シートを作り移植します。 慶應義塾大学の岡野栄之氏は、「今回の臨床研究でiPS細胞の治療に関わる課題が抽出され、安全面では何を注意すべきか等、 多くの情報が得られるはず。それらは再生医療を多くの方に届けるための貴重な知見です」と語ります。 岡野氏は、複数のモデル動物で、神経幹細胞の移植により脊髄損傷の機能を回復させる研究を成功させています。 そして現在、神経幹細胞をiPS細胞から作りだし、 その細胞を使って脊髄損傷を治療する臨床研究を4、5年のうちに開始する計画に取り組んでいます。 日本発のiPS細胞技術。様々な研究アプローチから再生医療への応用が近づいてきました。 その確かな歩みと今後の展望を岡野氏にお聞きしました。


神経幹細胞で脊髄損傷を治療する

1998年、岡野氏は中枢神経研究の常識を打ち破り、成人の脳にも神経幹細胞が存在することを発表しました。そしてその研究をきっかけに再生医療研究を本格的に開始します。「目標は成人の脊髄損傷の回復。まずはラットをモデル動物に使い、神経幹細胞の移植で失われた運動機能を回復することを確認しました。2001年には、同様の実験を霊長類でも成功。そしてヒトへの応用を進めるために、ヒト胎児由来の神経幹細胞の利用を想定し、様々な倫理規定に配慮して準備を慎重に進めてきました」。しかし2006年のヒト幹細胞の臨床研究指針には、ヒト胎児由来の幹細胞の使用は含まれず、その計画を断念せざるを得なくなります。岡野氏は、「本当に失望した」と当時を振り返ります。ところがちょうど時期を同じくして、山中伸弥氏のiPS細胞樹立成功の情報を耳にします。そして「これは行ける!」と確信し、すぐに山中氏との共同研究を開始します。「最初の頃のiPS細胞、つまり第一世代は取り扱いが難しく研究もなかなかうまく進まなかったけれど、第二世代になると品質も向上し、研究の手応えを感じるようになりました」とiPS細胞研究について、その黎明期から話を始めます。そして2010年、ヒトiPS細胞由来細胞でマーモセットの脊髄損傷の治療に成功し、ヒトへの応用へと大きく前進しました。

神経研究を始めたきっかけ

医学部の学生時代は微生物学研究室に所属して、がん遺伝子研究に打ち込んだ岡野氏。ところが卒業を間近に控えた頃、研究分野を考え直すタイミングが訪れます。「がん遺伝子のpoint mutat ionとがん化に関する衝撃的な二つの論文が立て続けに発表されたんです」と岡野氏。「その時なぜか、いろいろなことが分かり始めたがん研究を続けるより、何も分かっていない未踏の分野を切り拓きたいという思いが湧いてきました。そこで大学卒業後は、生理学教室に移動し、神経の研究を始めました」と当時を振り返ります。その後、留学先のアメリカのジョンス・ホプキンス大学ではプロジェクトに参加して、来る日も来る日もショウジョウバエの遺伝子研究を行います。そして8000の変異体解析から、musashiという遺伝子の機能欠損で剛毛が二本に増える表現型になることを発見。その後、この遺伝子が神経幹細胞の正常な発生・分化を司ること、さらに神経幹細胞の目印(マーカー)にもなることを突き止めます。そしてこのmusashi遺伝子を起点に、ラットや成人での神経幹細胞の発見につなげていきます。

もう一つのiPS細胞の特長を活かす

脊髄損傷の機能回復にiPS細胞由来の神経幹細胞を活用する岡野氏。「治療だけでなくiPS細胞には、もう一つ大きな特長があります」と指摘します。「それは疾患iPS細胞の有効性。血液系の疾患であれば、採血して直接白血病を診断できますが、神経系の疾患では、病巣部位の組織を直接採取するのは、倫理的にも不可能です。ですから患者さんの血液や皮膚のような細胞からiPS細胞を作って、神経系の細胞へ誘導する。そうすると実際の病気で何が起きているのかがよくわかります。我々のグループでは、例えばアルツハイマー病由来の細胞では、ベーターアミロイドタンパク質が通常の約2倍多く産生されていることを確認しました。他にもてんかんやパーキンソン病など、約30種類の疾患iPS細胞の研究を、多くの他機関の研究者と一緒に取り組んでいます。ヒト疾患のモデル細胞として、病態解析や創薬への利用が期待されます」と語ります。

研究を支えるモチベーション

再生研究の最前線で業績を上げ続ける岡野氏。研究室には基礎研究者から臨床医として研究に取り組む100人を超えるスタッフが在籍しています。また多くの国内外の研究会や学会でも重要な役割を担い、様々な研究プロジェクトのリーダーも務めています。「がんや神経研究への強い好奇心から研究を始めましたが、再生医療研究を始めたことで患者さんとの交流が増え、途中でこの研究を止める訳にはいかないという、強い使命感が生まれました。また研究室に多様なバックグラウンドの研究者がいることで、お互いが学び合うことができます。基礎研究者の論理的思考と臨床医の豊富な経験や病気に関する知識でディスカッションも深まります」と朗らかに語ります。基礎研究から臨床研究へ、大きく歩を進めたiPS細胞研究。多くのスタッフや共同研究者と共に岡野氏の挑戦は続きます。

岡野栄之(おかの ひでゆき)1983年 慶應義塾大学医学部卒業、慶應義塾大学医学部や大阪大学蛋白質研究所の助手、米国ジョンス・ホプキンス大学医学部への留学等を経て、1994年筑波大学基礎医学系分子神経生物学教授、1997年大阪大学医学部神経機能解剖学研究部教授、2001年より現職。21世紀型COEプログラム「幹細胞医学と免疫学の基礎-臨床一体型拠点」拠点リーダーや、内閣府・最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム)「心を生み出す神経基盤の遺伝学的解析の戦略的展開」中心研究者などを務める。また井上学術賞や紫綬褒章など数々の受賞歴や「ほんとうにすごい! iPS細胞」(講談社)などの著書がある。


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