エピゲノム解析と網羅的がん関連遺伝子解析からのアプローチ

牛島俊和 氏(国立がん研究センター研究所分子診断・個別化医療開発グループ エピゲノム解析分野 分野長)

「みんなががん細胞を解析しているのであれば、自分はがん細胞ではないものを解析しようと思います」。「いきなり新しいことを始めても勝ち目はありません。戦法が重要です」。国立がん研究センター研究所の牛島俊和氏の研究戦略だ。その結果、見つかったことは、胃がん患者の場合、一見正常に見える組織にも、既にたくさんのエピゲノム異常が蓄積しているという事実。がんになる前から異常があると聞くとショッキングだが、発がんリスクを正しく知ることで早期発見につなげることができるとの期待も大きい。のみならず、次世代シークエンサを用いることで、診療も研究も有り様が全く変わろうとしているという。
「現在、特定の分子標的薬が効果を発揮するがん罹患者は、100人のうち10人程度のことが多い。これからはがんの個性をさらに絞り込まざるを得ず、100人のうち1-3人といったレベルの薬が多くなってきそうです」。「今の解析技術で徹底的に調べても、発がんの原因となった遺伝子突然変異が見つからない人が何10%もいるがんもあります」。「家族性のがんの方というのは、乳がんや大腸がんの場合、意外と多くおられます。これまでは簡単には調べることができませんでした」。がん制圧へのいくつもの障壁に対して、これまで蓄積してきたエピゲノム解析に関する豊富な見識と、新たに始めた網羅的な遺伝子変異解析が切り拓く、がん研究の将来像を牛島氏に伺いました。

鍵は“非がん細胞のDNAメチル化異常”

牛島氏はこれまで、様々ながんでのDNAメチル化異常を解析してきました。その中で特に注目したのは、他の臓器のがんに比べメチル化異常が有意に高頻度に見られた胃がん。他の研究グループががん細胞自体のメチル化異常研究に集中する中、牛島氏を大きな飛躍へと導いたのは、がん患者の非がん細胞でのメチル化異常でした。それまで抜け落ちていた、慢性炎症からがんへの道筋が初めて見えてきたのです。牛島氏が描く道筋は以下のとおり。ピロリ菌が感染し、胃粘膜に慢性炎症をおこす。すると、IL1βやTNFα、活性酸素などの活性が上昇し、正常な細胞でメチル化異常をおこす。蓄積したメチル化異常によって大事な遺伝子までがやられてしまうと細胞ががん化する。「炎症が発端となる肝がん、膵臓がん、胆嚢がんはもちろん、明らかな炎症が検出されない食道がん、肺がんなどでも、ピロリ菌感染で働いているのと同じ仕組みがメチル化異常をおこしている可能性は十分考えられます。胃がん研究から得た知見を他のがん研究へ。広い分野に応用できる知識を抽出し、基礎研究の力を活かしたい」。

意外にも、研究を始めた当初は遺伝子の変異に興味を持てなかったという牛島氏。師である杉村隆氏から学んだ教え「しゃくとり虫戦法」が氏を現在の分野に導きました。「しゃくとり虫戦法」とは、「自分の得意分野を軸とし、少しずつ新規分野に足を踏み入れていく」という戦略です。出発点は化学発がん分野。第一歩としてゲノム網羅的に変異を調べるRDA(Representational Difference Analysis)法を身につけます。次に出会ったのが、米マサチューセッツ工科大学のRudolf Jaenisch教授が研究していたDNAメチル化。変異以外のがんに関与する現象を求めていた牛島氏は、RDAを軸足にエピジェネティック異常の世界に足を踏み入れ、みごとMS-RDA(Methylation-Sensitive-Representational Difference Analysis)という、ゲノム網羅的にDNAメチル化異常を検出する方法を開発し、世界の先端に躍り出たのです。現在も、胃がん細胞でのDNAメチル化異常を軸足に、新しいしゃくとり虫戦法でさらに前へと足をのばしています。「他の組織でも、正常な細胞でのDNAメチル化異常頻度から、将来のがん発症リスクを予想する診断を臨床につなげたい。特に、いまピロリ菌除去の人がもの凄く増えています。これらの人では、内視鏡検査の頻度を調整したりすることができると期待します。また神経芽細胞腫という小児腫瘍では、DNAメチル化異常を調べると予後が正確に分かります。予後が良い人では、必要以上の治療を避け、副作用を低減したりすることで、患者のQ.O.L.が向上します」。

基礎研究を加速する網羅的がん関連遺伝子解析

牛島氏が現在注目しているのは、網羅的ながん遺伝子解析。今年、東病院の大津氏と共同で200人の胃がん患者のがん組織について、409種類のがん関連遺伝子群のDNA配列を解析しました。この時解析した配列は16,000か所、これを次世代シーケンサで一気に解析したそうです。「目の前の患者に特定の薬が効くか否かを調べるだけの場合は、従来からある50のがん関連遺伝子について解析するシステムで相当なことがわかります。分子標的薬があるような因子、例えばBRAFやPIK3CAなどはほとんどカバーされているからです。しかし、新しい治療につながる可能性をもった遺伝子を探す私にとっては、がん抑制遺伝子も徹底的に解析できる今回のデータは宝の山」と牛島氏。基礎研究で主流となっているエクソンシーケンスと比べても、臨床を見据えたがん研究の現場ではカバレッジが高い方法が威力を発揮するといいます。「がん組織は、がん細胞と非がん細胞が混ざったヘテロな状態です。がん細胞の含有率は10%から高くても50%程度。同じコストで解析した場合、特定の変異を検出する可能性は、数十回程度のエクソンシーケンスよりも数百回のカバレッジでシーケンスするシステムに軍配が上がります」。そして同定した変異を新規の治療法開発につなげれば、より多くの臨床医が網羅的なDNA解析の効果を実感できるはず。「これだけ徹底的に解析しても既知の異常がないとわかれば、次の研究をしっかりとした土台の上に始めることができます」。そうなれば研究室単位で次世代シーケンサを備え、がん研究が加速する。牛島氏が想定する未来像です。

網羅的DNA解析とエピゲノムが導く新しい地平

次世代シーケンサの普及によって、どのような変化が臨床現場に生じるのでしょうか。牛島氏はこう予想します。「最終的には、初診でがん組織をサンプリングし、1週間で突然変異とDNAメチル化解析を行い、次回の診断でがん組織に含まれる変異やメチル化異常に応じて適切な治療・投薬を行うという時代になると思いますし、我々はそれを目指しています。別の話ですが、家族性の腫瘍の方、特に、乳がんや大腸の原因となる遺伝子の生まれつきの変異をもつ方というのは意外におられます。発症前にこれらの原因となるがん関連遺伝子解析を受け、発症リスクに応じて検査頻度を決定し、早期発見・治療につなげるというのも重要かもしれません。もう一つ大きなアプリケーションは、血中DNAの配列解析による検査です。リーズナブルなコストで正しい情報を提供できる検査システムを備えている病院は、圧倒的な競争力を示すようになります。国としてこのシステムを整備するか否かで、がん治療のレベルは違ってくるはずです」。

現在、次世代シーケンサを、エピゲノム解析に応用する技術を構築中という牛島氏。「次世代シーケンサの投入でエピゲノム解析の課題を解決し、ゲノム、エピゲノムの両側面からがんに迫りたい」。得意のしゃくとり虫戦法は、スケールの大きな到達点を設定することで、誰も踏み入れたことがない新たな地平へ向け、確実に歩を進めています。

牛島俊和(うしじまとしかず)
1986年東京大学医学部医学科卒業後、東京大学病院内科研修医、1989年より国立がんセンター研究所発がん研究部リサーチレジデント、1991年より研究員、1994年より室長を経て、1999年より発がん研究部長、2011年から現職。


関連リンク